Takano
Atsushi
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2000年
東京大学法学部卒業
国家公務員I種試験に合格するも、国民を守る本当のプロに成りたいとの思いで、2000年警視庁に巡査として入庁
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2002年〜2014年
交番勤務の後、警視庁捜査一課殺人犯係等、様々な捜査部門でキャリアを積む。真実・本質を見極める能力を磨く。
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2014年〜2019年
治安のプロに成るため、志願して、内戦下のアフガニスタン、テロの猛攻にされされていた、トルコ・イスタンブールで、外交官として勤務。
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2020年〜2022年
コロナ禍の最前線である陽性者専用留置場の設計・運営・指導責任者として、600名以上の陽性逮捕者の収容を取扱う。
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2022年
某大手IT企業に転職、シニアマネジャーとして勤務。
結果を出し続ける民間ベンチャー気質の組織に飛び込み、
日本人は古い環境・制度さえ改めれば、必ず力を発揮し、経済大国日本は復活できると確信。
History
生い立ち幼年時代
会社員と主婦の両親の間に生まれ、小さいころから、本が好きで学研マンガ「ひみつシリーズ」をよく読んでいました。また、「正義感が強く」物事や人間関係など、「公平な判断ができる子供」と言われていました。
この当時から、筋金入りの子供好きで、幼稚園児ながら、老人の様な表情で、自分より小さい子に接している、とも言われていました。
小中高時代
小中学校は、野球選手を目指して野球にのめり込み、
中学では区の代表チームで4番を打ちました。
しかし、野球の強豪だった憧れの桐蔭学園高校に落ちてしまいました。
野球の弱い高校に入り、当時湾岸戦争やユーゴ紛争に関心があり、争いだらけの世界変えられる政治の世界を目指そう、政治家か官僚を目指そうと決意。
プロ野球選手になる努力を勉強に費やせば東大も不可能ではない、と大好きだった野球を捨て、涙を呑んで、野球一色から勉強一色に、路線変更。
大学時代
運動会(体育会)ラクロス部に所属。ディフェンダー。
野球とは勝手が違い、2流プレーヤー。
中国や、ミャンマー、カンボジアなどを、バックパック旅行し、治安機関の大切さを学び、国民を守る仕事を志す。
治安が悪化していた東京で、今何が起きているか知りたいと思い、武器を持たずにパトロールするNY発のNPO、ガーディアンエンジェルスに入り、池袋チーム、サブリーダーとして活動。
治安は、警察だけで保つものではなく、市民や自治体、企業と連携し、犯罪に無関心でない社会を作ることが最も大切であることを学ぶ。
警視庁
若手時代
国家公務員I種試験(いわゆるキャリア試験)には、法律職合格者230名中30位で合格しましたが、志望していた警察庁に3年間官庁訪問するも、採用して頂けず。どうしても、国民を守る仕事がしたく、地方公務員である警視庁に巡査から入庁しました。
警察の仕事は、交番でも、刑事でも、天職と思えるもので、犯罪に苦しんでいる人を助けられる仕事にのめり込みました。
一番長く在籍した、捜査一課では、被害者の無念を晴らすために、不可能はない、という刑事魂や、真実や本質を突き詰めて明らかにする能力を学びました。この能力は、意外にも、後に外交官になって国際情勢の分析に、非常に役立ちました。
また、警視庁5本の指に入る、温泉デカでもありました。
国家公務員I種試験(いわゆるキャリア試験)には、法律職合格者230名中30位で合格しましたが、志望していた警察庁に3年間官庁訪問するも、採用して頂けず。どうしても、国民を守る仕事がしたく、地方公務員である警視庁に巡査から入庁しました。
警察の仕事は、交番でも、刑事でも、天職と思えるもので、犯罪に苦しんでいる人を助けられる仕事にのめり込みました。
一番長く在籍した、捜査一課では、被害者の無念を晴らすために、不可能はない、という刑事魂や、真実や本質を突き詰めて明らかにする能力を学びました。この能力は、意外にも、後に外交官になって国際情勢の分析に、非常に役立ちました。
また、警視庁5本の指に入る、温泉デカでもありました。
外交官時代
日本では経験できない治安環境での警察活動を学びたいと思い、志願して、当時タリバンとの事実上の内戦下であったアフガニスタンに1年間、イスラム国のテロの猛攻にさらされていた、トルコ・イスタンブールで4年間の、計5年間、外交官として勤務しました。
アフガニスタンでは、100名のアフガン人警備員と10名のイギリス軍OBの警護要員を指揮しての、対テロ警備活動に従事。
イスタンブールでは、日本人学校銃撃事件の際には、マフィアのボスのところへ交渉に行き、また、軍のクーデーター未遂という大事件の際には、軍が民間人を多数殺傷している戒厳令の夜に、封鎖された高速道路をバイクで邦人保護に向かうなど、警察官らしく、危険を顧みずに命を懸けた邦人保護活動をしました。 また、外交インテリジェンス活動でも内外から、高い評価を頂くことができました。
イスラム国の空港テロの際に、犯人たちにいち早く気付き、職務質問をして銃撃され、瀕死の重傷を負ったが、多くの日本人被害を防いでくれたトルコ警察官を、警察官として、日本外交官として感謝の表彰。
日本では経験できない治安環境での警察活動を学びたいと思い、志願して、当時タリバンとの事実上の内戦下であったアフガニスタンに1年間、イスラム国のテロの猛攻にさらされていた、トルコ・イスタンブールで4年間の、計5年間、外交官として勤務しました。
アフガニスタンでは、100名のアフガン人警備員と10名のイギリス軍OBの警護要員を指揮しての、対テロ警備活動に従事。
イスタンブールでは、日本人学校銃撃事件の際には、マフィアのボスのところへ交渉に行き、また、軍のクーデーター未遂という大事件の際には、軍が民間人を多数殺傷している戒厳令の夜に、封鎖された高速道路をバイクで邦人保護に向かうなど、警察官らしく、危険を顧みずに命を懸けた邦人保護活動をしました。 また、外交インテリジェンス活動でも内外から、高い評価を頂くことができました。
コロナ禍
イスタンブールから帰国した後、コロナ禍が始まり、陽性者の生活の面倒を全て見る、陽性者専用留置場の設計、管理、指導の責任者として、防護服を着ながら、留置管理第一課の仲間たちと3年間奮闘しました。
最大時80名の陽性者を収容、3名が酸素吸入器を使用し、容態が悪化した重症者を救急車が10時間以上病院選定をしても入院先が決まらない、という、野戦病院の様な状況で、保健所や嘱託医、医療従事者の方々と苦労を分かち合いながら、600名以上の陽性逮捕者を収容し、医療崩壊の現場を戦い抜きました。
また、日本で初めて、医療機関以外でのPCR検査機器を導入し、警察官が作動させての、逮捕者全員のPCR検査を可能としました。
警視庁退職
民間へ
世界の中で負け続ける日本を何とかしたいと思っているときに、「日本社会をイノベーションで良くしたい」という強い意志を持った社長に率いられたRグループからお誘いを頂き、転職を決意。
コロナ禍をともに戦った、仲間たちに励まされ、見送られての退職(任警視退職)。中途退職でこんな良い辞め方させてもらえる人はいないと戦友たちに感謝。
Rグループでは、多くの優秀な若い人達と、分刻みの激務に明け暮れる経営陣に大きな刺激を受け、民間で結果を出し続けている組織の凄みを学びました。 日本人は、古い環境さえ改めれば、必ずその優秀な能力を発揮し、経済大国日本を復活させることができる、と確信を持たせてもらえました。
世界の中で負け続ける日本を何とかしたいと思っているときに、「日本社会をイノベーションで良くしたい」という強い意志を持った社長に率いられたRグループからお誘いを頂き、転職を決意。
コロナ禍をともに戦った、仲間たちに励まされ、見送られての退職(任警視退職)。中途退職でこんな良い辞め方させてもらえる人はいないと戦友たちに感謝。
Rグループでは、多くの優秀な若い人達と、分刻みの激務に明け暮れる経営陣に大きな刺激を受け、民間で結果を出し続けている組織の凄みを学びました。 日本人は、古い環境さえ改めれば、必ずその優秀な能力を発揮し、経済大国日本を復活させることができる、と確信を持たせてもらえました。